今日は昼間の仕事中に母親から連絡があった
用件は「病院に見放された...」だった
数年前に腎臓癌を患って癌に侵された一方の腎臓を摘出した
その後に運悪く他の臓器に転移、抗がん剤治療を始めたのだが
残った腎臓の機能も低下している上に抗がん剤が腎臓に大きな負担を懸けることから
人工透析をしなきゃならなくなるほどの治療は担当医とも相談の上で見送ってきたのだが
あまりにも腎臓の機能低下が激しくて癌に対する一切の治療が不可能になったということらしい
余命は長くても一年だと言われたらしい
本人は相当に大きなショックを受けて、いてもたってもいられずに電話をしてきたようだった
いろいろと話したいことがあるというので早めに自宅に戻った
本人は予想ほどは凹んでないように見えたが心の中はモヤモヤした気分で一杯だったことだろう
いろんな話をしながら、私が母親に伝えたのは
ひとつは心が開き直れるようになるまで凹んでいればいいということ
無理して元気さを装うことだけはするな、凹んでいる自分をダメな人だと思うなということ
ふたつめは私も含めて兄弟4人を立派に育てた上げた貴方は十分に生きた価値のある人生を歩んできた
孫7人の成長もその目で見守ってあげることができたじゃないか
そのことを自信と誇りに思って欲しい、そして、そんな自分の人生を自分で認めてあげて欲しいということ
みっつめは後悔のない余命を生きろ!ということ
好きなこと・楽しいこと・自分が生きてると実感できること、その三つだけをしてればいい
それ以外のことは何も考えなくていい、死ぬ間際まで後悔のない生活を送って欲しいと
母親にとっても私にとっても覚悟を決めた日になったのかも知れない
余生をどう生きるのかは母親の心が決めることではあるが
最後には「わかったよ、頑張ってみる」と言ってくれた
死に対する怖は経験したことがないので実感が持てないのだが、きっと見事な生き様を最後の最後までお手本として私や家族に見せてくれることだろう
私も今まで以上に必死にそれをサポートする、母親が生まれてきて本当に良かったと思ってもらえるように...
久しぶりの乱読シリーズである
「人間の覚悟」出版:新潮新書 著者:五木寛之 を読んだ
"とうとう覚悟を決める時が来た..."という言葉で始まる
リーマンショックから始まった世界金融危機の煽りを受けて日本経済が大打撃を受けていることは前回も書いた
著者は諦める覚悟をすることで惑わされないで生きていけると説いている
諦めるとは「明らかに究める」といい、希望でも、絶望でもなく、事実を真正面から受けとめることであると書かれている
私的には諦めると表現するよりは依存体質若しくは期待体質からの脱却だと受け止めている
きっと誰かが助けてくれる、きっと誰かが何かしてくれる...
そんな期待してしまう心の持ち主から卒業しましょうという感じか
期待=ファンタジーだと心理学の講師でもある谷口さんから教わった
ファンタジーとは夢の世界で、それが現実化する可能性は限りなく低い
なのにその夢の世界の御伽噺をあてにして日常生活を組み立てているのだとしたら
それは落胆の連続の日々となることだろう
言い換えれば他者に依存したり期待したすることを諦める覚悟とも言えるだろうか
又、人は必ず何かの犠牲の上に生きていて誰しもが悪人なのだと自覚しようという件があった
これに関しても、一般には誰しも自分は善人で良識人であると思い込んでいる
仮にそれと違う評価を受けた時に心が揺さぶられることから脱却しようというのが本質的に言いたいことのような気がした
悪評を受けると誰しも気分は良くない、心も頭も平常ではいられなくなるのだ
そんな事態を避けるためにそもそも自分は悪人なんだと自覚しようと言ってるのだと(私は)理解する
そうした上で生きた証となる成果や意義のある人生だけがすべてじゃない
ただそこで生きているということだけでも実はとっても大変なことでそれだけでも価値がある
気付かないうちに必然的な他者との関わりの中で必ず何らかの影響を与えているもので
「如何に生きるのか!?」なんて考えなくとも日々を平穏に暮らせることが何よりも大切なのだと
これも私の理解はやや違う、意義や価値を自分で自分に与えることが出来る人ならば
他者がどんな評価をしようが一切お構いなしで平常心が保てるなのである
でも自分を自分で評価して存在価値を自分で見出せる人は決して多くなく
他者から評価されることで自分の存在価値を確認している人が大多数なのだ
だから悪人だと言われると過剰に反応してしまうし、他者に(評価をしてもらう)依存から脱却できないのである
自らの人生を成功と考えるのも失敗だったと後悔するのも本当は全ては自分が決めている
他者は自分以外の人生の良し悪しに関して最後まで関わってくれるほど自分以外の人に興味なんて持っていないものなのである
そんな自らの判断を鈍らす要因は事実から派生する自分の解釈(心や思考の動き)なのである
自分なりの理解(解釈)では、冒頭の「事実を真正面から受けとめること」の真意は
まさしく解釈で動揺せずに事実とは何かを探し出す目を見つけようということのような気がした
新年明けましておめでさうございます
長いお休みも終わり一昨日から日常が再開されました
年末の特番を見てついつい過去のシリーズを制覇してしたくなってしまったのが「人志松本のすべらない話」である
早速レンタルショップへ行っていくつか借りて来て楽しんでいました
中身は何のタメにもならない何の教訓も生まない何の生産性もない話ばかりで、
唯一得られるものがあるとすればパネラーの人を引き込むトーク術ぐらいのものではあるのですが
お気楽に笑って過ごすには適当なDVDでした
今年、高校受験を控える息子も生き抜きに丁度良いと気に入っておりました
話は180度変わってちょっと暗くて難しい話
年末年始にさかんにニュースネタになっていたのは、突然の解雇を通告され住む所もなくしてしまった方々である
政治家さんやエコノミストや評論家の皆さんがそれに関していろんなことをおっしゃっていたのだが
(私の視聴した範囲では)どの方の話もなるほどなぁ~と頷けるものがなかった
そうなった原因があーだこーだと説明してもらっても何も得るものはないし
「安心活力」だと総理大臣が発表したところで、安心もできなきゃ活力も生まれてこないのである
なんだかとても違和感を覚えているのである、以前に「意識≪想像」というエントリーを書いたのだが、現実(意識)の厳しい状態や環境を喧伝しすぎていて、それらを受け止めている人たちが想像(力)を働かせることすら出来ないように仕向けているような気がしてならない
というか、大勢がそっちを向いたら一斉にそれに倣ってしまう日本人の特性が現れているような感じがするのだ
それは情報を出す側も受け取る側も同様で日本全国が鬱状態に陥っているかのようだ
想像という活力を生み出そうとする発言は全くと言っていいほど見ることが出来ない
どこかで誰かがそんな発言を繰り返しているのかも知れないが
私の知るところではそれらは不況だぞ!厳しくなるぞ!の大合唱にもみ消されて聞こえてこない
経済の大きな流れを無視することは出来ないのだろうが、
肌身で感じることの出来る景況感は受け取り方次第でどのようにでも変化をさせることが出来る
100年に一度の大きな変革期だと言われ、先を読んで警戒心を強めることはとても大切なことだとは思うが、過剰な警戒(心からくるアクション)は結局自らの首をも絞めかねない
私は多くの人と比しても相当に警戒心が強い方でそれを武器にすらしている自負がある
現在の過剰な警戒心が生み出している様々な閉塞状態を私は逆に警戒しているのである
(私が)警戒心を解き放すのに必要なのは最悪の事態を想定してそれに耐えられるか否かを判断することだと経験で培った
現状で想定される最悪の事態ってのはどんな状態を企業も個人もイメージしているのだろうか?
それはとても耐え難く受け容れ難い事態なのだろうか!?
ややオーバーな表現だけれと日本人全員が住まいを失くして路頭に迷ったり、餓死者が続出する...なんてことには絶対にならないだろう(と私は思う)
よく言われることではあるが「上を見たらキリがない、下を見てもキリがない」のである
勝手な推測でしかないけれど、ずっと上のままでいたい若しくは今の生活水準を下げたくない蓄えた富を手放したくないという一部の方々のベクトルが
現在の強烈な警戒を煽っている本質のような気がしてならない
そんな話ばかりを聞かされるなら、上記に紹介した「すべらない話」を見てお気楽に過ごしていた方がましな気がする
私の住むエリアにやっとNTTの光回線が布設されるらしい
らしい...というのは、いろんな代理店が入れ代わり立ち代わり電話や訪問してくるのである
決まり文句は次の通りである
「お客様はインターネットをお使いでしょうか?」
使ってるよと言うと...
「回線は光でしょうか?」
この地域はADSLしかきてないじゃんと言うと
「今回、光回線が開設されるんです、ADSL回線よりも数段スピードUPしますよ」
別に今のスピードでも不自由はしてないんだけど...と答えると
「お客様、今なら接続工事代が無料になるんですが...」
ウチは今のままでいいから光なんていらねぇよと返すと
「他の皆様は加入させってますよ」
それで何?隣が加入したらウチの加入しなきゃいけない決まりなの!?
「いえ、そういうわけではないのですが...」
ほぼ100%このパターンで撃退をしている
何よりも「他の皆様は...」というのは日本人にとって最も心揺さぶられるひと言なのである
他人と違うことを恥ずかしいことと思ってしまう文化が日本には根強く残っている
それは幼少期から躾という名の下に身に染み込んでしまった習慣というかモノの受け止め方である
だから未だに、その深層心理を付いた口説き文句がはびこっているのである
ある意味では相互に束縛したり支配したりするための言葉遣いだ
その文句のスキームを理解していない場合に
「あら、じゃあウチもお願いするわぁ~♪」となるのかどうかは知らないけれど
少なくとも私はその言葉を聞くと逆に商品に対する自信のなさを喧伝しているようで
全く購買意欲は湧かないのである
テレフォンガール(最近はテレフォンミセスも多いけど)のデスクの上には
こう来たらこう返せ、あぁ来たらこう返せ的なカンペがあるのだろうけれど
そこにもし、最後まで言うことを聞かない客がいたら
「他の皆様もそうなさってますよぉ」と言いなさいなんて書いてあったとしたらゾッとするのである
「夫婦を長続きさせる会話術」 出版: 小学館 著:津田 妙子
今朝の電車の中でこの本を必死に読んでいる20代後半の男性を見た
私は読んだことはないし(多分)読むこともないだろう
2年前に発売された書籍である
出版社 / 著者からの内容紹介を読むと...
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と、あるので購買ターゲットは主に女性のようだ
ではあの青年は一体どんな目的でそれを読んでいたのだろう
・結婚を直前に控えて母親が読むように言われた(お父さんのようにはならないでね...)
・両親が熟年離婚の危機だ(おかん、今更誰ももらってくれへんぞ!)
・本当は本人が離婚の危機だ(女房の言葉が外国語に聞こえる...)
・文化人類学を研究している
・表紙はそれでも中身は○○小説である(それは内緒♪)
・誰にも言えない何かしらの秘密がある(これも内緒♪)
(なんか、鉄拳っぽい書き方になっちまったな)
と、様々な考えられるのだが
私の瞬間的な感想は、夫婦の間まで誰かから話し方を教わらなきゃならないのものなのかねぇ...だった
夫婦は長い時間を共にすることで当人同士しかわからない阿吽の呼吸が生まれる
それが行き過ぎたり勘違いしたりすると、まさしく熟年離婚の危機に瀕することになるのだが
それにしても、誰かに教わったことがそれの解決策になるのかなぁと思う
そもそも、夫婦でいることや、それを長続きさせることにどんな意義があるのか?という別な問題提起になるんじゃないの?と思う
世の中にはマニュアル本が数多でている、私が思うのはその教えを実践する実行力よりも
テクニックを教わろうとする安易な心構えの対策の方が必要な気がしてならない
今朝はいつも通りに駅の改札口を抜けてホームへ歩いていた
その時にフッと肩が軽くなって、同時に肩に架けていたブリーフケースが床に落ちた
愛用しているヒジネスバックはビクトリノックスという会社のモノで丈夫で長持ちが売り文句だったはずなのに...
落ちた原因はショルダーストラップの留金の突起部分が磨耗して金具から外れるようになっちゃってました(写真参考)
塗装の剥げ具合からも3年間の歴史と荒っぽい使い方をしてるのねって感じではありますが...
鞄本体には何の問題ないので、たかがショルダーストラップのために無駄にするのも"勿体無い"ので、ネットで探してみた
そしたら、ちゃんと代替品があるもんなんだなぁ
同じメーカーのものではないけど、十分に代替品として機能を果たしてくれそうである
ちなみにお代は2000円、ブリーフケースごと変えていたらきっと数万円は掛かっちゃうだろう
浮いたお金は忘年会用に取って置こう(って、結局使うんかいっ!)
以前なら、間違いなく新しいカバンに買い換えていた
でも、愛着があることもさるとながら、私の中に"勿体ないオバケ"が現れてパーツ交換で済ませようと思ったことが、自分でも驚きなのである
実は「勿体無い」という発想は日本特有のものだと最近読んだ本のどれかに書いてあったことを思い出した
試しにネットの和英辞典で調べてみてもジャストフィットする単語は英語に見つからない
世の中はエコロジーの時代である、日本の「勿体無い」という言葉(というか精神)が「Fujiyama」や「Geisya」(例えが古過ぎるな...)や「Otaku」のようにそのまま通じる時代がやってきたら楽しいと思う
日本人以外には理解されていない日本文化(精神)の素晴らしさはまだまだ沢山あるに違いない
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「イカの哲学」集英社新書 著者: 中沢新一 /波多野一郎 を読んだ
共著というよりは波多野一郎さんが1965年に発表された「烏賊の哲学」に中沢新一さんが新たなる解釈を加え、今の時代に失いつつある生物としての人のあり方を問うた本です
大きなテーマとしては戦争を回避できない人のメカニズムを(私には)ちょっと難しい言葉で解説してらっしゃる
個人的には戦争や紛争という人と人が殺し合うような出来事を身近なモノとして受け止められない世代ではあるが
そんなことは身近に起こらなくとも、何があっても回避すべきことだというのは、物心付いた人なら普通に導き出せる結論なのある
なのに、戦争は未だになくならない、この大いなる矛盾はどころからくるのだろう!?的な疑問はこの本を読んでくださいませ
私にはそれよりも「異物」というワードがとても気になった
生物は基本的に固有種を死守するために異物の混入を検知して排除するシステムをDNAの中に持っていて
そのシステムが唯一生殖という瞬間にだけ停止する
もっと判りやすく書けば、卵子は精子を受け容れて新しい命が誕生する瞬間である
人は知能が異常に発達したが故に地球上の生態系を破壊し、さらには自然までも回復が困難なまでに自らの暴利を貪った
ヒューマニズムという「人間中心主義」が正しいものとして傾倒して歯止めが掛からなくなった
波多野一郎さんは、神風特攻隊員~シベリア抑留~アメリカ留学という経歴の持ち主で、
アメリカ留学時代の生活のためにしたアルバイトとして、イカの水揚げ作業を手伝った
沢山のイカが水揚げされる中、中にベルトコンベアーから零れ落ちるイカを見た時に
神風特攻隊員の一人だった自分とそのイカとの類似性に気が付いた
それを「烏賊の哲学」として出版されたのである
イカだって、現に命があって海を回遊していたのである、それが今は人に食されることを運命と諦めてベルトコンベアーに乗せられている
神風特攻隊員だった(過去の)自分も、敵艦に爆弾もろとも突撃して命を落とす覚悟をしていた
イカの知能が覚悟という意志を持てるかどうかは定かではないが、擬人化して考えれば有り得ることなのかも知れない
イカも自分も「実存」しているひとつの命であることには変わりないという悟りのようなものか
イカは人にとってみれば明らかに「異物」である、でもそのイカの実存を人は感じることができる(可能性がある)
この異物と判断することと類似性を想像する力をどちらも人は持っている
中沢新一さんはその「実存」(戦時の敵に命があること)をより意識することでしか本当の平和(人と人が殺しあわない状態)は訪れないと書かれている
人間中心主義という思考は時として「自分中心主義」へと変化していることに気づかない
場合があるということなのである
人の都合の良いように...が自分の都合の良うに...と変化した瞬間を人は感じ取ることが出来ない
それは何も戦争だけではなくて、日常の生活の中にでも溢れていることなのである
それは「異物」の排除というDNAのメカニズムそのものであり、「異物」を受け容れることができるはずの人はその大切な機能を顧みなければならない
図らずも難しい話になってしまったのだが
本当は「異物」の代表として私は注射器をイメージしていた
それは中一になる娘が大の注射嫌いで、注射と言われただけで泣くわ叫ぶはの大騒動なのである
ほんの一瞬チクッとする程度の注射でどうしてそこまで...と疑問に思っていた
その理由が異物の強制的且つ意識的な混入に対する拒絶反応だったのだとやっと理解したのである
異物を受け容れられるのは理性である、異物を拒絶するのは動物としての感性なのだろう
そういう意味では我が娘は私に似ず感性に満ち溢れた子なのかも知れない
岐阜のあるプロジェクト絡みで以前の勤務先時代にお世話になっていた人に会った
事務所の前まで車で行くと中から「誰が来たんかいなぁ」といった感じでお目当ての社長が駐車場まで出てきてくれた
最初は本当に誰が来たのかが判らなくて訝(いぶか)しげな顔をしていたが、私が車の窓を開けて名前を告げると
「おぅおぅ、久しぶりだねぇ」と一転して顔を綻(ほころ)ばして出迎えてくれた
「ちょっとお時間りますか!?」と聞くと、「まぁ、車を止めて事務所に入っておいで」と迎え入れてくださった
車を停めて事務所に入ると懐かしい方が一人二人...、何故だか皆さんの開口一番は「太ったねぇ~」であった(涙)
転職してからは、パーティー等で顔を合わすことはあったのだが
対面でゆっくりと話をするのは約4年振りである
前の勤務先の会長が亡くなったのが3ヶ月ほど前、その時にその方は葬儀委員長をなさっていて
その節は大変でしたねぇという話から始めた、その後も短い時間ではあったけれどいろんな話をしながら
私が目的としていたことも快く了解してもらって席を立った
帰り際に車の誘導までして頂いて、最後にニコッと笑って「又、遊びにおいでな」と見送ってもらった
当然ではあるが、職を変った今は利害関係も何もない
でも、突然の訪問にも関わらず温かく迎え入れてもらえたことは私にとっての何よりの財産なのだと痛感している
仕事(会社)を変って最も大きな損失は実は人間関係なのだと言われる
会社というバックボーンがあって、そこの担当者だからお付き合いをするけれど
転職をすれば会社と言うバックボーンが無くなる訳で、従前のような対応をしてくれなくなるという話だ
でも、幸いにして、私の場合は誰一人として職場が変ったことで対応が変った人はいない
これは今更ながらではあるが私の「最大の誇り」であり「最大の財産」だよなぁと思うのである
開口一番の「太ったね」の後には必ず「相変わらず元気にしてそうだね」とおっしゃって頂ける
その元気に見える私(のオーラ)をいつまでも続けることが
お世話になったのに図らずも縁がなくなってしまった方々への恩返しのような気がした
この堀江敏幸さんという作家さんは全然知らなかったのだが
買って読んでみようと私を動機付けたのは同じ歳で同じ岐阜県生まれだっただけのこと(笑)
同じ時代と同じ空気を吸っていた方がどんなことを感じて日々を暮らしてらっしゃるのかを知りたくて読みたくなった。
生きた世俗の描写にはとても共通するものがある、それは学校での様子だったりテレビ番組だったり他者との関わり方だったり
「あの頃はそんなだったなぁ」とか「そんなものが流行ってたなぁ」と頷けることも多い
住んでいたのは岐阜市近郊と東濃地方でやや距離はあるものの
やはり同一の文化圏に生きた人なんだなぁという感じある
特に第Ⅳ章のエッセイがとても楽しくで題目「ガンゴール」を読んでいたのは電車の中ではあったが大笑いしてしまった
昔か何故だかエッセイが好きだ、長編小説を読むと判らないことが出てきて
それを理解するのに必要な場所まで何度も読み返さなきゃならないことがよくあった
だから、短いもので直接的に思いを受け取ることが出来るエッセイに傾倒していったのであろう
いつの日からか感受性に乏しいことを自覚していたからなのだろうか
自分にはない発想を提示されることに不思議な喜びを感じて、いつかそれらの真似をすることか格好良いことだと思い込もうとしていた節がある
今までに私を虜にした方々の様々な要素を取り込むことで今の私の立ち居振舞いや思考パターンが形作られていると言っても過言ではないのかも知れない
そういう意味では感化されやすいタイプなのだと私自身は思っている
前回のログの交通違反の罰金を払ってきた
郵便局の窓口へ納付書と現金を出して処理をしてもらう
しばらくして名前を呼ばれて領収書をもらった
そして、帰り際「ありがとうございました」ではなくて
「お気をつけて!」と声を掛けられて郵便局を後にした
瞬間的にムカッとした、そりゃ確かにわたしゃぁ交通違反をしましたよ
だから罰金払ってんじゃん、別にアンタにそんな注意をされる謂れはどこにもないんじゃって思った
郵便局の人はそんなつもりで声を掛けてくれたんじゃないことは判っている
きっと親切心から出た言葉なのだろうとも判っている
でも、私の心というか受け止め方はそうじゃない
自分の非はちゃんと判っている上に更に念を押されるというか
ダメ出しをされたようで面白くなかったのだ
多分、初めて会った人で、これから先も会うことはない人だろう
だから間違いなく私のことは何も知らない人だ
そんな人に、交通違反をしたダメな男だと私の全人格を否定されたように感じた
これは言葉を私が勝手に拡大解釈しているだけなのだ
最終的な全人格を否定されたと思うまで、時間にして多分1秒とはかかっていないだろう
言葉を聞く
↓
はぁ!?、こいつ嫌味いってんのか!?
↓
お前は一体誰?アンタは何様のつもり!?
↓
アンタが俺の何を知ってるっていうんじゃ!
↓
なんでアンタなんかに注意されなきゃならないの?
↓
こんなことで俺を評価するなよ
↓
俺は本当はもっと凄い奴なんだぞ!
↓
自分の人格を必死に肯定しようとする
と、順序は多少違うかもしれないが、最初は予想外の言葉に驚き、そして戸惑い、その後に憤り、相手を否定して、そして自分の優位性を高めて自分を守ろうとする
こんなことを寝ている時間を除いてずーっと頭の中でやり続けているのである
明らかに郵便局員さんは私の中では既に敵以外の何者でもなくなっている
でも、仮に親しい関係になってその方の性分というか性格が判ったら
親友と呼べるほどの友達になれるかも知れないのである
こうやって自己分析が出来ないと郵便局員さんは私が死ぬまで私の中で私を憤らせた人として記憶に残っていくことでしょう
解釈の違いで自分の将来の可能性を消してしまうことがある典型のような話なのだと思う
自分の可能性を自分で消さないこと、大切にしたいものである
昨日のエントリーの後半の続きのようなことになってしまうが
「念」ってのはやっぱりあるんだなぁと感じた昨日なのであった
車載レーダー探知機を購入しようと数日前から考えていた
決してハンドルを握ったら人間が変ってしまうようなことはなくて
ごくごく普通のドライバーなのであるが、かと言って常に制限速度を遵守しているわけでもないので
どこかで運悪くスピード検問に引っ掛かる可能性はある
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転ばぬ先の杖ではないが知人と相談して(↑)の機種にしようと決めたばかりだった
その矢先である、昨日仕事の待ち合わせ時間に少し遅れそうだったので少しだけ急いでいた
そんなときに限って、のんびり走る車が前にいたりするのである
なんとか追い抜いて我がペースで走れる環境になったその瞬間に
道路脇から赤い旗を持った制服姿の人が現れて、私の進路を邪魔しようとする
最初は交通誘導のおじさんかと思ったのだが、道路工事をやっているわけでもなくて
臨時に設置されたスピード検問に見事に引っ掛かってしまったのだ
スピードメーターを最後に見た記憶は前の車を抜き去った直後
メーターはゆうに100キロを越えていた
警官に導かれてパトカーに乗り込む...超過したスピードは一体何キロだったのだろうと
強烈な不安が頭の中をもたげる、警官が示した数値は
28キロで違反減点は3点とのこと
過去5年間は無事故無違反なので、とりあえず罰金だけで済みそうでホッと胸を撫で下ろす
でも、探知機を検討している時に話していた言葉
「罰金取られることを思えば、探知機なんて安いもの...」
やっちゃってからでは、先行投資をするはずだった余裕も木っ端微塵なのである
でもでも、こういうことは続いたりするものでもあるのだ
来るべき危険のために教訓を生かして予防措置を怠ってはならないのである
でも、頭の中で考えたりしていると、何かしらの現実が目の前に現れるものなのだということを痛感している
思考するだけで「念」は知らず知らずのうちに自分の周りの環境を作り上げたりするものなんだなぁと、少々痛い予定外の出費をもって思い知らされるのであった
それともうひとつ、「災害は忘れた頃にやってくる」(ーー;)
プロフィールの「こんな人」でもある立川志の輔さんの落語を車の運転中に飽きもせずに何度も何度も聞いている
滑舌が良くて話術に長けているのは当然のことではあるが、
何よりも感心するのは「間」である、話と話を結びつける無言の時間帯
そこでは当然に何も声を発していないのだが、聞いている側の頭の中は無ではない
この先の展開やら噺の出演者たちの心情やらを思い思いに巡らしたりしている
無音の状態から次の言葉が発せられる時
そのタイミングが何とも絶妙で、だからこそぐいぐいと噺に引き込まれてしまう
今月の初めに出張で飛行機を利用した時に、同じ演目を別の落語家さんが演じているのを機内で聞いた
噺の筋が判っていることもあるが、同じ様に笑えないし噺に引き込まれることもなかった
その差はやっぱり「間」が私とは合わないからなのだろうなぁと感じていた
以前にもご紹介した桃知利男さんが、いろんな人の著書やブログを読んでいると
文字には表されていない「行間」に書き手の本心が見え隠れするとおっしゃっていたことがあった
更に、「脳あるヒト心ある人」を養老孟司さんと共著された角田光代さんも
幼い頃に読んだ小説を改めて読み返してみると、文字にはダイレクトには現していない
著者の本当に伝えたいことが見えるようになってきて、昔は嫌いだった(つまらないと思った)作家の偉大さに気づかされたと書かれている
合わせて、「悩む力」の姜尚中さんもその著書の中で夏目漱石の様々な小説を解説しつつ
現されている文字の裏側にある、漱石が伝えたかったであろう事柄を独自の視線で伝えてくれている
「間」や「行間」という表現しないことで伝えることはとてつもなく困難な作業のように私は感じる
完全に説明しきってしまわないと気が済まない(まさしく左脳的)のが私の性分であるからだ
逆に考えれば、受取り手として私は表現しないで伝えようとしている送り手側の思惑をどこまで理解しているだろうとも思う
それを実感として感じられるようになるにはまだまだ時間が掛かりそうである
過去のログにも共通することでもあるが、「間」とか「行間」を操れるようになりたい今回のログのように思考を始めると
不思議とそれに纏わる事柄に自然に出くわす機会が多くなる
それは私の中で興味心が発動したというのがきっかけなのだと思う
興味心の発動から文字として表現するまで、一応、私にも「間」はあるらしい(笑)
今回は「らく」ではなくて「たのしい」と読んでくださいませ
というのも、当社の.comサイトのトップページは3人のブログエントリーの題名がランダムに一文字づつ表示されるので
そこで、これからは敢えて一文字の題名を続けてみようかと...
(6さん、ゴメン m(__)m まぁいつまでも続かないから (^_^;))
週末に6さんとは一緒に飲んでいた、その時に新たなる挑戦の話は聞いていたのだが
なんだか、本当に楽しんでくれてるなぁ~というのが実感なのである
キャロラインリクエストがこの先どのような展開を見せるのかは判らないが
まずは自分たちが楽しめることが第一優先のような気がしている
「楽しい」ってのは遊んでいるだけのことではなくて
規制に捉われない新しい発想を生み出すこと、その過程が何よりも楽しいのだ
発明とかではなくて、ある物とある物を融合させることで新しい何かか出来る
その組み合わせの妙だったり、奇抜さだったり、独創性だったり
それは誰かに評価して欲しいからではなくて、自己表現として存在している
結果は他者が勝手に決めるもので、それを期待して仕事をしたら
きっと楽しさはなくなっちゃうんだろうな
オイラももっと楽しみたいゾ~!!
おもいし・る おもひ―【思い知る】
つくづくと身にしみて悟る。わきまえる。
「芸の未熟さを―・る」「どうだ、―・ったか」
by -goo 国語・新語辞典-
今日は楽しみにしていたコミック「ジパング No.37」(かわぐちかいじ著)の発売日だった
我が家では私に加えて子供2人も楽しんで読んでいる
その表紙の裏に著者のコメントがあって、そこに「思い知る」ことが大切だと書いてあった
その文字を目にした時に「これかぁ!」と思った
「これかぁ!」というのは、ここのところ考え続けている言葉と行動のギャップについてである
頭で理解できても、その全てが実行出来るわけではない事は前にも書いた
それは文字や言葉等の情報を自分が必要なものとして認識していないことや
具体的なアクションを起こす前に情報になった瞬間に既に答えが見えてる的な中途半端な大人の判断(という諦め)等が要因なのだろうと書いていたが
それらを端的に現す言葉を見つけ出せなかったのだ
「思い知る」は上にもあるように、つくづくと見に沁みて悟ることである
言葉や文字として理解(頭の中だけで判ったつもり)しても身に沁みて悟っていないから、
「思い知ってない人」は理解=実行に結びつかないんだなって(私の中で)合点がいった
合点がいくという表現は個人的に何故か好きである
合点がいったこと(モノ)は頭というよりも体が受け止めたような感覚で何年経っても忘れないのだと思う
そういう意味では「思い知る」ってのも同義語とも言えると思う
話は変わるが既に新しい通勤の相棒とお付き合いしている
それは![]()
「悩む力」集英社新書 著者:姜尚中である
まだ途中までしか読んでいないけど、著者は現代の個人主義が拡大した現代はそれより前に比べて自由になった
けれど身分制度や様々な抑圧の中で生きていたそれ以前よりも生き難い時代になっている
自分で全てのことを判断しなければならないことはとっても困難なことだからだと書いている
夢や希望を持つことすら思考の範疇になかった時代から、何でも自由で好き勝手な選択が出来る時代に急激な変化が起こっているのだと
中にはそんな環境に適用できる人もいるかも知れないが大多数の人は大きな波の中で
「自分とは何者?」とか「生きる意味は?」なんてことを考えずに暮らしているものだとしている
これにも全く同感でまさしく合点がいく説だと思いながに読み進めている
「思い知る」ことと馬鹿みたいに難しいことばかり考えている人ばかりじゃないよということの2つが
私の中では矛盾を起こしていない、どちらもアリな話なのだと思う
ただ、「思い知る」という行為を勧んでしようと私は思っている
その理由は「思い知れない」よりは「思い知れる(=合点がいく)」ことの方がなんだか楽しそうだからである
何故、楽しいのか!?については理由はない
楽しいことは楽しいとしか表現のしようがない
今日からプロ野球セリーグのクライマックスシリーズが第2ステージが開幕している
岐阜県で生まれ育った私は父親の影響もあり中日ファンではあるのだが
なんだかなぁ...な気分なのである
第1ステージの阪神戦だって結果は勝っちゃったけど
むしろ阪神ファンに対して申し訳ないくらいの気持ちがしているのである
もう色んなところで語りつくされて入るでしょうが
いくら制度として採用したとはいえ、何のために半年間もリーグ戦をやっているのか?
やっぱり疑問に感じてしまうし、スッキリしない感は否めないのである
今年のペナントレースの中日は弱かったなぁってのが本心である
肝心なゲームをことごとくモノに出来なかった
個人的には暑くなる前に既に終わっていたような気さえしていた
それなのに今更クライマックスシリーズで日本シリーズ出場権を争うなんてのは茶番にしか思えなくて
応援する気にもなれないというところである
諦めないことはとても大切なことだけれど
結果が既に出ているのにそれを蒸し返すようなことはどうなのかと思ってしまう
もちろん、これは選手が望んだことではなくて球団側が興行を考えて思考して施行したことで
それなりの盛り上がりにも繋がってはいるんだろうけど
スポーツには勝ち負けはついて回るもので、それが判りにくい制度ってのは
本当の意味での野球再興に繋がらないようなきがしてならない
話はやや変わるが、モンスターペアレンツという最近現れた新種の生き物の中には運動会の徒競走で着順を決めることを良しとしない人がいるらしい
理由は可愛い我が子に敗北感を味あわせる行為が許しがたいとのことらしいが
そんなことで我が子の人生が左右されると思いこんで必死に抗議する方が狂っていると(私は)思うのである
過剰に保護された子供がちゃんと人として成長出来るのかの方が心配なくらいである
なんだか、プロ野球界をリードしている人(達)とモンスターペアレンツは根底ではとても似ているような気がしてならない
先週の木曜あたりから風邪をひいてしまったらしくて体調が思わしくないのである
寝込むほどではないのだが、咳は止まらないし体はダルいし、頭も重いし痛い
土曜に少し回復したかなぁと思って少し夜更かししたのが良くなかったみたいで、昨日からまたぶり返している
以前なら一度上昇気流に乗れば戻ることなんて絶対になかったのに...
こういうところで体の衰えを実感するようになるんですね
ということで、今日も休養に専念するのである
アクセス数を気にかけているわけではないのだが...
キャロラインリクエストのトップページが
Webデザイン系のいろんなサイトでブクッマークされたらしくて
過去と比べると何十倍もあるもの凄いアクセスになっているのである
それに便乗するかのようにこのブログも過去にないアクセス数を記録している
そりそうである、だってキャロラインリクエストのトップページからは
私とNo.6とsolの3人のブログへのリンクしないし
あのカチャカチャ変る文字はついついクリックしたくなる欲望を掻き立てるようで
自然にアクセス数が増えているというだけの話である
我が社にとってWebデザインは作り上げたいと思っている重要なひとつの顔である
まずはそれを評価されたことを素直に喜びたいと思うし
最初の一歩を踏み出したような感じもしている
何はともあれ、「6さん、ありがとう!」なのである
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「脳あるヒト心ある人」養老孟司/角田光代(著)を半分くらい読んだ
含蓄のある言葉が沢山並んでいる本である
決して難しい言葉ばかりが並んでいるわけではないのだが、なんだか考えさせられる本である
交換日記のように交互に思うことを書き綴ったリレーエッセイである
感想は読破後に書き記したいとと思う
読んでいて思い出した話があった
誰から聞いたのかは記憶がないのだが、それは「小さい子供を叱る時に理由を聞かないで下さい」ということ
まだ小学生にもならない子供が悪戯(悪さ)をした時に
「どうして、そんことをしたの!?」と子供に聞くということが既に間違っている
なぜならば子供は確信犯ではなくて、単なる好奇心の延長線で思わずやってしまうだけで
そこには理由なんて存在しないからだ
だから、大人目線で行動を起こすには必ず理由があるという常識は子供には通じない
その通じない常識を子供に無理強いしても期待した答えは絶対に帰ってこないし
問いかけた側も答える側も"ストレスが溜まる"という結果が残るだけという話
大人は言葉で物事を理解しようとする
それは当然の話である、言葉は人類最大の武器であり
言葉があったからこそ、今日の人類の繁栄があることも間違いのない事実なのだから
ただ、全てが言葉で理解出来ることばかりじゃないということも知っていなければならないのだと思う
言葉だけで理解しようとする必ず無理が出てくる
だって、人には感情も感性もあって理詰めだけでは動かないものなのである
理屈が正しくても、動けない、同意できない、追従出来ないことは少なくないのだ
全てが一つの切り口で解決出来てしまう決めつけてしまうことが最も恐ろしいことで
思考の柔軟さを失うことは人らしく生きることを放棄するようなものなのである
言葉も大切ではあるが、それで全てが解決できるわけではないことを意識しながら書き続けたいと思う
知っている人は知っている...又もや始めてしまったのだ
顔Bの大建工業コーポーレートサイトで別のブログを書くことに
(別宅)「左脳な伝言」というわけである
なんだか「いつか来た道だなぁ~」と思いつつも、何もしなくて後悔するよりは良い
キャロラインの顔と大建工業の顔は共通する部分もあるけど、やっぱり違う場合もあるわけで
それぞれの特色が必要な場合は別のエントリーとして書いていこうかなぁ...と
本家(?)も別宅もご贔屓に預かれますようお願い申し上げます
それはそうと、ここのところ天敵が現れた、というのも朝の通勤電車でのこと
通勤の往路は基本的に車内は静かで、復路は結構騒がしい
その理由は自宅から集まってくる朝と職場(や学校)から集まってくる帰りでは
知り合い同士で乗っている確立が圧倒的に違うからである
だから、朝は恰好の読書(若しくは睡眠充足)タイムのはずだった
なのに、最近同じ学校に通う女子高生2人がいつも私の近くに乗り込んでくる
そして、ピーチクパーチク・ペチャクチャ・ミャーミャーとたわいもなくて話しても何の意味もない(であろう)話を
乗ってから降りるまでずーっと続けているのである
電車では携帯電話での会話はマナー違反だと言われるし
事実、「他のお客様の迷惑になりますので、ご遠慮下さい」と毎回アナウンスされる
でもでも、聞きたくもない話を聞かされるのは女子高生2人組だって(私にとっては)同じなのである
かくして、私にとっての天敵2人組みが誕生したのだ
(精神的に)大人な私はいつも視線と態度でそれをアピールしているのだが
天敵にはその免疫があるらしく、一向に静かにしようという素振りは見せない
言葉に出して注意をするのもアリだとは思っているのだが、それも(大人じゃない)大人げなさのように思ってしまう
目を瞑って寝てしまえば...といつも思うのだが
目を瞑れば瞑るほど聴覚は敏感になり、天敵の話が聞こえてきてしまうから悔しいのである
どうやら、天敵その1には好きな男の子がいるけど、声が掛けられないらしい...
天敵その2にはどうしても馴染めない部活の先輩がいるらしい...
目を閉じているから、睡眠記憶法を無意識に実践してしまっているらしい(涙)
読み終えた感想
読み始めは良かったのだが、その後は目新しい情報というか気づきを得ることはできなかった
ヒトそのものがネオトニーで幼態熟成であること
差の中でも特に日本人は他国の文化と異なり「若い(幼い)」ことを歓迎する傾向にあること
更に、大人でないことを文化にしてしまう特殊能力も持っていること
大人じゃない文化としては、例えばオタクだし、漫画だし、ゲーム機である
そのいずれもが日本発の文化として他国にも受け容れられているという事実があること
そういう私も漫画を未だに読んでいる
一昔前なら大人向けの漫画はアダルトが定番だった
でも、今は(精神的な)大人の鑑賞に堪えられるほどの発展ぶりをしている
業界としての裾野が一気に拡大しているともいえるのかも知れない
そういったある意味での良い面もありながら
ニートやフリーターといった責任を取らない、将来を考えられない人たちも出現させてしまったのも事実なのである
私は個人的には膨大に流れてくる情報量の急激な増加もひとつの要因のような気がした
まさしく、それはネット社会だともいえるのかも知れないが
いつの世も「上には上がいるし、下にも下が必ずいる」
知りえる情報量に限界(自分の周りだけ)だった頃は
圧倒的に極端な人が周りに大勢存在することはなかった
でも情報量の増加で知りえる世界を一気に広げた、極端な人たちを大勢知りえることになった
「まだ俺はましな方...」と楽観的に考えてしまう頻度が高くなったのじゃないかと感じた
且つ、情報量の増加は考えて答えを出す習慣を人々から遠ざける結果ももたらした
そんな複合的な要素がいくつも重なり合って大人にならない選択を無意識にしている人たちが増えたように(私は)思う
著者は将来のコスト増を考えると、そんな甘いことをいつまでも容認していては具合が悪い
いつもは大人でなくとも必要な時には大人の対応が出来るようになりましょうねと警鐘を鳴らす形で締めくくった
(それが意識的に出来るのなら問題にはならないんだけどね...)
次のターゲットは 養老孟司 /角田光代 共著の「脳あるヒト心ある人」だぁ
「内弁慶」で書いたように、私には2つの顔がある
それが、どういう流れでそうなっちゃったのか、もうひとつ増えちゃうかもしれないのである
新たな顔Cの誕生なのである
その顔Cで何をしなきゃならないかというと
顔Aにも顔Bにも属さない某プロジェクトに関わらなきゃならなくなりそうなのだ
某プロジェクトは最低でも5年はかかりそうなプロジェクトなのである
ますます、本職は何なのだろう!?状態に突き進んでいるようだが
それはそれで、今の私に与えられた天命なのだと積極的に受け入れようと思うのである
チャンスは突然やってくるようで、実は何もしていない人には舞い降りてこないものだと思う
そういう私も知らないうちに抱えきれないほどのチャンスを棒に振ってきたことだろう
それに気付けなかったからチャンスを掴めないまま今日まで来てしまった(のだと思う)
本人が気付いていなければチャンスはチャンスとはならないのだ
最近、最も痛感していることはチャンスってのは、本当はピンチから始まるんじゃないか!?ということ
我ながら物凄いポジティブ志向だなぁとは思うのだが
「こんなことが起こっちゃった、どうしよう...」と不安に思うことが本当に少なくなった
それはオーバーかもしれないが覚悟ができたということなのかも知れない
自分の生生き様に何かのしらの自信が持てるようになったのだと感じる
それが何なのかは判らない、でも何故か明るい未来があるような気がしている
将来、何が起こるのかは誰しも予測することは不可能ではある
だから、漠然とした不安感を覚えるのが普通なのだと思う
でも、今の私はどんな出来事が降りかかって来ても、それをチャンスに出来る気がしている
実は受け止め方次第でどうにでもなる話なのではあるが
まさしく「意識≪想像」で書いた通り、意識は想像を上回っているのである
そう感じられることに強烈な喜びを感じる今日この頃なのである
前のエントリーで書いた「ネオトニー」(幼態成熟)である
幼態とは分かり易く書けば、昆虫類の「幼虫」である、成虫になる前の姿や形のことを指す
人間が幼態成熟と言われる所以は霊長類の中で幼態と成態の変化が少ないことである
チンパンジーは幼形と人の幼形は似ていると言われているが、チンパンジーと人の成態は明らかに違う
特徴的なのはチンパンジーは口の部分が大きく前にせり出したり、全身が長い体毛で覆われていたりする
人の中にも毛深い方もいらっしゃたりするが、それでもチンパンジーやゴリラの生態のように顔全体を覆うことはない
生物として人は幼態のまま大人(成態)になっているといことである
仮にチンパンジーが人の祖先だとして、その変化はいつから始まったのだろう!?と思う
突然変異から進化は始まる、進化の過程で不要になった体のパーツが変化したり退化したりし最終形に至る
幼態成熟はその過程の中にしか存在しないはずだと思うのである
進化の過程で不要になった体毛が生えなくなっていったはずなのである
生物として幼態成熟でも子孫が残せるはずになったのは幼態成熟でも生き延びられる環境があったからのはずで
その環境は突然変異の時に既に整っているとは思えないのである
卵が先か?鶏が先か?的な話ではあるが、きっととても長い年月の中の偶然の出来事があったのだろうと思うしかない
しかし、この進化の話はまさしくDNAのみが関わっていることで
「大人がいない...」とか「バカばっかり...」的な世間の識者と呼ばれる方々の嘆きや批判とは無縁なような気がする
それは、生物としての生き残るための本能の話ではなくて
思慮深さが足りないとか短絡的とか自分勝手さを批判しているもののはず
ただ、そういう進化の過程を踏んでいる我々には大人になりたくない的な遺伝子情報がどこかに組み込まれているのかもしれないねぇ
だとしたら、大人がいなくなりつつある現代は新しい進化(退化かも)が始まっているのかも
それは日本だけではなくて世界的に同時多発的に起こっているのかもしれない
新しい通勤のお供、清水義範さん著の【「大人」がいない...】である
読み進めたのはまだ半分くらい
まずは文字に対するイメージの変化から話は始まる
「老」という文字は経験も知識もあって立派な大人の象徴としての存在感が昔はあった
事実、江戸時代の将軍以下の要職には「老中」とか「大老」という肩書の人たちが存在した
まさしく彼らは時の将軍を支える知恵袋の役割を果たしてきたのだ
更に大人の定義として単に肉体的な大人(俗にいうアダルト)と精神的な大人との違いを反対語で示した
肉体的な大人の反対語は子供、精神的な大人の反対語は大人でない人
子供と大人でない人というのは決定的に違うのは雰囲気でご理解賜れるだろう
しかし、子供でも(精神的に)大人な人はいるわけで
単に、子供<大人でない人<大人という数式になるわけではない
又、日本人の「若さ」に対する盲目的な憧れを日本独特の文化として解説している
「可愛い」という表現は日本以外では大人に対する讃辞にならなず逆に侮蔑の言葉として受け取られる
それは大人として(本当の大人かどうかは別にして)認められない言葉として理解され
日本人以外のミームでは決して受け入れられない評価としなってしまうからである
ひと昔前、日本の若い女性が年配の方の仕草や言葉を「可愛い」と表現していたころがあったが「」
あれは海外では全く通じないことなのである
逆に言うとそういう独特な文化を成立させている日本は凄いことなのだとも(私は)思う
別に海外がどっであろうが、それは海外の話で(私の住む)日本には関係のない話なのだと(私は)思っている
どんな結論を導き出して終わるのかは判らないが「ネオテニー」(幼態成熟)という初めて聞く(見る)言葉からの発想はとても面白い
なるほどなぁ~と久しぶりに感心しつつ、少し前に好きだった進化についての考察を思い出したりながらら電車の中で読み耽っていた
カテゴリー「乱読」で前回ご紹介した「本当はちがうんだ日記」は昨日完読したのだが
あれ以降、心に響くエントリーに出会えなかった(残念!←かなり古いか...)
今回は「大人」がいない...は完読後の感想もぜひ書きたいなぁと密かに期待している
昨日から顔Bで九州に出張中
セントレアから福岡空港に降り立って、佐賀を通過して長崎県佐世保に
その後、長崎市内まで足を延ばしてお泊り
今日は島原からフェリーに乗って熊本に
九州を縦断するように高速道路を南下して鹿児島まで
途中、台風に刺激された低気圧が発達した大雨に見舞われて
高速道路も50km制限でスケジュールも予定より押せ押せになる
今夜は鹿児島の天文館でこの方と久しぶりの一献
明日の昼頃の飛行機でセントレアに戻る予定だけど
台風が最も接近している時間帯とドンピシャリなのである
無事に飛行機が飛んでくれればいいのだけれど...
|
「民意」のうちには政治家個人の信念や価値観や嗜好とあきらかに異質なものが含まれている。
自分自身の政治的信念と背馳するような政治的信念をもっている人間であれ、その人が法制上の「国民」である限り、政治家はそのような人の意向をも代表せねばならない。
この仕事は決して愉快なものではない
・
・
メディアは「政治家ははっきりとわかりやすく言葉を語るべきだ」とさかんに主張する。
そうだろうか。
私に言わせれば、それは要するに私念と公務のあいだに「葛藤がない人間」であれということに等しい。
それでよろしいのか。 前者であれば悪人であり、後者であれば愚者である(その両方である場合もある)。 |
世間の目に晒されるという意味では政治家の場合は公務を「表」、私念を「裏」と言い換えてもいいだろうか
更に、
議題とは、「キャロラインリクエスト社の表向きとは何?」 言葉通り受け取ると違った解釈になりそうだが・・・「表向き」とは上っ面のことではなく、表に出していきたい(出しても良い)戦略のこと。 |
我が社の方針を定める重要な話し合いでした
でも、表向きの体裁を整えるだけの話をしたつもりはない
まさしく、キャロラインリクエスト社としての存在価値を明確にして
方向性のコンセンサスを取るために喧々諤々と議論をした
(終盤は酔っ払っちゃってて何を話したのかは定かではないのだが...(^^ゞ)
内田さんのエントリーもNo.6とsolとの話し合いでも私は同じ事を考えている
公務と私念、表向きの戦略と存在価値
その2つを可能な限り同化させたいと私は思っている
結果としての戦略や表現方法は変ることはあっても良いと思う
肝要なのは自らが実現したかったモノを見失わないことで
それを実現するためのツール(戦略や表現方法)は臨機応変に考えれば良いと思っている
政治家の皆さんが本当の自分の大義をあからさまに出来たらきっともっと政治は面白くなる
「国民のために」なんて台詞は何度聞かされたって(私の)心を打つことはない
例えば金持ちになりたいんだ!ってのでも良いとも思う
ただ、金持ちになって、その後はどうするの!?という追加の質問をしたくはなるけどね
「自我同一性(self identity)」で私の本当の欲求を書きました
「支える」ことが何よりも私に満足感と幸福感を与えてくれて、且つ最大の存在価値を見出してくれる
他人が私の見える部分だけを評価した時には「支えてる男」には映らないかも知れない
私の見える部分は支えるために必要なことをツールとして表現しているだけだからだ
このキャロラインリクエスト社では社長という役割を頂戴しているが
別に社長業を通して有名になりたいとも思っていない
むしろ、No.6やsolという大きな可能性を秘めたクリエーターの可能性を更に開花させた(支えた)人として誰かの記憶に残ってくれれば良いと思っている
キャロラインリクエスト社の存在価値は近いうちにHPで披露することができると思う
私の知り合いの某企業の社長さんが「ITは飲むことだ」とおっしゃていました
その先人の教えを忠実に実践している私なのでありました
電車に乗っていた、車内は少し混雑気味で座れない人も多くいる
私は乗るのが短い距離だったのではじめから立って過ごすつもで
乗降口の近くでつり革に掴っていた
電車が停車したり出発したりすると少なからず体が進路方向に平行に揺れる
それはつり革の私が持っている輪っか部分とつり革自体を電車に固定している個所までは
太いビニール製のもので繋がれているのだから仕方のないことだと思っていた
今日はそんな私の諦めを解決してくれる人に出会わせてもらいました
その人はつり革を進路方向に平行して二つ掴んでいた
横から見るといつもブラブラしているつり革がV時に固定されているのである
これなら、前につんのめりそうになる時は後ろのつり革が、
後ろへのけ反りそうになる時は前のつり革が、目一杯伸びている状態になるので
電車の制動に惑わされることなく快適な乗車時間を楽しむことができる
前にも使いましたが目から鱗ポロポロ、略して「ろこぽろ」(by 原田宗典さん)なのである
可能であれば、前後左右4本の吊り革を使えば横揺れにも万全の態勢を整えることが出来るなぁなんて考えていたのではあるのですが...
きっと、つり革4本を独占する男として周囲から白い目で見られちゃうに違いない
誰も立っていない空いている電車でならそれも実行出来そうな気もするが、空いているのなら座れば良いのである
電車の揺れを完全吸収して微動だにしない男の実現は難易度が高そうなのである
知ってるいる人は知っているが私は二つの顔を持っている
ひとつはキャロラインリクエストの一員としての顔A
もうひとつは、夜な夜なおねぇ系のショーパブで派手な衣装に身を包んで踊っている顔
...なんてことは(自分で)想像しただけでも恐ろしいので有り得ない
本当は某建設関係会社の一員という顔Bである
私やNo.6の過去のエントリーに何度も登場している会社なので察しがつく人も少なくはないと思う
その顔Bでの話、新卒学生採用のためにいろんな学校を回ったりする
学校の先生方から聞かれる話で多いのは「内弁慶な生徒がとても増えた」である
ここ数日だけで3度同じ話を聞いた
もう秋になろうとしているのに就職が決まっていない大学生も少なくないのだとか
その原因はは自発的に会社訪問が出来ない人たちが多いからというのが某就職斡旋会社の説明だった
高校生にも同じようなことが言えるらしい、就職試験で実力の半分も出し切れずに不合格になってしまう生徒が増えているとのこと
どちらも環境に慣れてしまえばそれなりの力は持っているのに...と嘆いていた
親御さんの保護の下で育てられるのは当然ではあるが
きっと過剰なまでの保護を受けさせられている子供が増えているのだろう
ある本で父親の母親化を嘆いている方がいらしたが、私も全く同意見である
両親が揃っている家庭であれば、父親と母親の役割は別にあるものだと書いてあった
普段家庭にいる時間が短くて、家庭に帰って浮いちゃう自分が恐くて
子供や女房のの機嫌を取りたがるタイプの父親が多くなったと作者は書いていた
これにも激しく同意をするのである
親父は一家の長として家族を養っているのだからデカイ顔をしていればいいし
家事をセコセコ手伝う必要もない、デンと構えていれば良いのだと思う
些細なことで動じない強さを教えるべきなのだと(私は)思っている
だから、王子かお姫様だと子供が勘違いして我侭放題に育っちゃう
でも、保護されていない世界ではそれが通用しないことを知っている
というか、きっと「アナタのことを特別視する気はありませんよ」という相手のオーラを肌で感じるんだろう
保護下なら両親が助けに来てくれるが家庭の外ではそれを望むことも出来ない
だから萎縮して本当の自分らしさを相手に伝えられないのだ
そうなった時の対処法を身につけていないから、立派な内弁慶君が出来上がっちゃうんだろうなと話を伺いながら考えていた
そういう我が子が外でどんな顔をしているのか私は知らないし
知りたいとも知ろうともしない、それは本人が自力で切り拓くしかないことで
父親としてできることはもうそこにはないからだ
恐いのはそんな人たちもいつか結婚して子供をもうけることだろう
自らに経験のないことは教えたくとも教えることができない
その連鎖を止めることはとても難しいことだと思う
なんだか、人類最古のボヤキ「最近の若い者は...」の世界に近づいてきたな
ジジィになりつつある証拠だろうか...
新しい通勤のお供「本当はちがうんだ日記」穂村 弘 (著)である
サブタイトルというか文庫の帯には
~この世に生れて四十数年、未だ人生リハーサル中。
......本番っていつ始まるんだ?~ と書いてある
まだ読み始めて30Pほど、「あだ名」がついぞつかなかった自分がまるで仲間外れにされているかのように恥じ
買い物をしたレジでつり銭を財布に入れる時間がいたたまれなくて上着やズボンのポケットに小銭が溜まってしまう習性を嘆いく「現実圧」
本当の自分はこんなじゃないんだぞ~とやや自虐的に書いている
中でも、「あたまたち」の古本屋の張り紙の話は笑えた
「女子〇〇生は立読自由」
来店客に注意を促すための張り紙には店舗側の真意がちゃんと含まれているという話
私が当事者である女子〇〇生だったら逆に絶対に立読みはしないだろう
だって、その裏側にある(ただならぬ)真意が文字から溢れ出ていそうだからである
当事者じゃない成人の男性の私としては冗談の判る店主(オヤジ)だなぁと思うのである
人の真意が露になった時ほど恐ろしいものはない
そこには強欲とも言えそうな本心が詰まっていそうだからである
張り紙という一方的なコミュニケーションツールは弁解の余地を与えてくれない
対面して話しているのであれば、イントネーションとか表情とかでその本気度を相手に伝えられるのだが
文字媒体はそこに居ない限り補足説明のしようがないのである
そういう意味ではこのブログも同様であるが
張り紙と違い真意を理解してもらうために無制限に書き綴ることができる
但し、それも各エントリーをちゃんと全部読んでくれた人という限定は付いたりするけど
逆説的には真意を隠すために文字や言葉を多く並べるということもある
そう考えてみると私の過去のエントリーもその二つに分類することが出来るかもしれない
いつか時間があったら、密かに分類してみよう
まだまだ、「本当はちがうんだ日記」には楽しませてもらえそうである
実は昨夜書きかけてUPするのを躊躇したエントリー
私のITiに関する師匠でもある桃知利男さんの今日のモモログ「だから大切なことは、勉強をして、自分の頭で考えて、説明をする。そして受け売りを止めることです。(リチャード・クー)」を読んでUPを決意するのである
本当は(多分)もうじき行われるであろう衆議院の総選挙で
「選挙の顔」で総裁を選びたがる某政党
いつそやの郵○選挙のようにフレーズや勢いや人気だけで投票することを止めましょうと書きたかった
だけど、なんか真面目に政治のことを語るのが
どうも性に合わない感じがして躊躇していた
最大野党が政権を担っても似たようなものだとか
若しくは、今よりも不安定になると言われているが
一度ならずに二度までも重責をプッツンして放りだしちゃう(辞めさせちゃう)政党よりはマシな気が(私は)する
そういえば、ほんの半年ぐらい前にマシそうな人もプッツンして辞めかかったことがあった
でも、戻ってきた...あの人が恥も外聞も捨てて戻ってきた
それだけでも評価できる気がする
何こども付和雷同でないこと、そして放り投げないことが一番肝要な気がする
------ 以下は昨夜書いたもの ----------------------
ふわ-らいどう 【付和雷同】|〈―スル〉付和雷同 意味
自分にしっかりとした考えがなく、他人の言動にすぐ同調すること。
▽「付和」は定見をもたず、すぐ他人の意見に賛成すること。
「雷同」は雷が鳴ると万物がそれに応じて響くように、むやみに他人の言動に同調すること。
「雷同付和らいどうふわ」ともいう。「付」は「附」とも書く。付和雷同 類義語
阿付雷同あふらいどう
唯唯諾諾いいだくだく
軽挙妄動けいきょもうどう
党同伐異とうどうばつい
吠影吠
声はいえいはいせい
付和随行ふわずいこう
雷同一律らいどういちりつby goo(四字熟語辞典)
勉強していた息子にどういう意味?って聞かれた
言葉自体は知っていたのだが、意味は知らなくて(覚えた記憶がない)
とっさに、「自分で辞書を引いて調べなきゃ頭には入らないぞ」と
親父のメンツを保つだけの返答を間髪入れずに返し
知らないことを悟られないように顔色一つ変えず悠々と(した態度のつもりで)自室に戻り
慌ててネット検索するのである (@_@;)
大昔なら「赤信号みんなで渡れば怖くない」の世界である
でも、それはその瞬間のことで、将来に潜んでいるリスクは無視している
大の大人が赤信号で渡っていて車にはねられて死んじゃっても世間の評価はとっても冷たいものだ
はねた側の賠償責任すら問えないことだって少なくない
そんなリスクすら考えないで渡っちゃうことが如何に無責任なのかを考えたい
------------ 以上、昨夜までのエントリー
こんな人に続く第二弾、プロフの中のあんな人とは内田樹さんである
出会いは『態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い』を何気なく手にした時だった
ちょうどその頃、心理学を勉強していた私は「内なる他者との出会い」というサブタイトルが気になった
読んでみて、話の波長が合っていて頷ける主張が妙に多い
知らないうちに虜になって、今も著書とブログを通じて日々勉強させてもらっている
内田さんからもっとも勉強したことがひとつある
それは改革と変革とかアクションを起こそうとかポジティブシンキングでいようとか
うまくは言えないけれど、今のままじゃダメでしょ!?危機感持とうよ!!と
自分を含めて周りの人たちを巻き込みたくて仕方ない人間だった
大昔(6年くらい前)にブログを始めたばかりのエントリーはそんな言葉ばかりが並んでいた
又、自分にそう言い聞かせて強制させることで村田富士男という人間を形成させようとしていたと言ってもいいくらいだ
どの著書のどんな文章だったのかは記憶に定かではないが
「情けなくったっていいじゃん」的な文脈があって
それを読んだ瞬間に目から鱗ポロポロ(略してロコポロby原田宗典さん)の状態になって
その直前数年間に体験した偉大な実験失敗の原因が判った気がした
偉大な実験とは某建設会社をIT化によって変革しようという試み
個人的にはやれるだけのことをやったが結果が得られなかっただけということで納得をしていたが
その失敗の要因は理解できないでいた、その要因はまさしく自分の中にあった
それは担当者として圧倒的なパワーで突出することで牽引しているつもりだったのに
実は「どうだ、俺は凄いだろう!」と薄っぺらなプライドをひけらかしているだけだったのだ
そこには「役に立たないと相手にしてもらえない」という私の強烈な思い込みというかトラウマがあり
純粋な気持ちでのリーダーシップではなかったことが周りに伝わっていたのだろう
攻めれば攻めるほど、希望とは逆の結果を導き出す結果となった
情けない自分も自分の中の一つとして理解して、隠さないで生きていけることは
隠して見栄を張っているよりも確実に強く生きられるし、人としての魅力も倍増するのである
内田さんの虜になったのはそんな訳なのである
やっつけブログ その1である
以前に別の(非公開な)ブログで書いていたものをそのまま掲載
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「けど...」って書いても何の事やら判らないと思いますが
正確には「けれども...」の略で逆接の接続詞である
逆接の接続詞なんて書くともっと判りづらくなりますが
要は相手の意見を否定する時に使う言葉なのです
「そうなんだけど...」「そう思うんだけど」等々
問題はその「けど」の後に続く言葉なのである
どんな言葉が続くかというと「やらない理由」や「出来ない理由」が並ぶのだ
アナタの言ってることは判るけど、赫々然々の理由でそれは出来(やれ)ませんと
行動を起こさないことの正当性を際立たせようとする言葉
しかも、それは自分の問題じゃなくて、必ず自分以外に責を押し付けて語られる
何故ならば、その時の本心は自分がそれを成す自信がなかったり勇気がない状態に陥っていて
それを相手に悟られたり知られたりすると自分を守れないから
他人のせいにして語るしかないのである
違う書き方をすれば、他者の提案が自分の問題として片付けられるのであれば
他人のせいにして何かを否定する必要性はどこにもない
でも、「けど」という言葉を用いて理由を他者のせいにして何かを否定することは
まさしく自分の問題としてそれを受け止めていて、自分じゃ出来そうもないと直感で判っているから
瞬時に拒絶反応を起こしている以外のなにものでもないのだ
無意識に「けど」を乱発している人もいるかも知れない
でも、それは今がそうなっているだけのことで
モノゴトの受け止め方を変えるだけで「けど」という言葉を使わない人になることは難しくない
「けど」という言葉を使わないように意識して議論をしてみて下さい
会議や打ち合わせ自体が生き物のように躍動感が感じられるようになるはず
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ある人からこのログはとっても印象に残っていて
それ以降、「けど」を使わない若しくは使わせないように実践しているんですと
話してもらいました
せっかくなので、再掲をしてみました
このブログにプロフィールを追加してもらった
(このブログはMovable Typeで作っているので僕じゃいじれないのよねぇ(-_-;))
プロフの中のこんな人とは立川志の輔さんなのである
立川志の輔さんは3年前、電車通勤をするようになって通勤途中の退屈な時間を潰すために聞き始めた音楽にも飽きて、何か別のものをと物色していて出会った
聞き始めは創作落語だった「はんどたおる」「踊るファクス」「みどりの窓口」とか
通勤電車の中でイヤホンから流れる軽快な話術に何度肩を震わせて笑うのを堪えたことか
周りの人たちにはニヤニヤしながら肩を震わせる変な親父にしか映らなかったに違いない
最近では「歓喜の歌」という落語ががそのまま映画にまでなるという快挙を成し遂げている人である
もちろん、某国営放送の「ためしてガッテン」の司会者としての方が認知度は高いかもしれない
9/14(日)の遅い時間、ソロモン流という番組で密着ドキュメントを放送していた
高座での迫力も凄かったのだが、プロライベートで四六時中煙草を咥えている彼の姿を見て、結局禁煙できなかったことが確認出来ただけでも一見の価値アリであった
(落語の枕で禁煙中をネタにしている件があるから)
1600人も入り国立劇場で一人会をしたかと思えば、翌日は80人の開示陽で落語をする
ふいに黙り込んで落語について頭を巡らせる
「好きこそものの上手なれ」の典型のような方なのだと感心して見ていた
仕事が上手く行かない時等は古典の「浜野矩随」を聞いてエネルギーをもらうのが最近の習慣にすらなっている
私を感染者0号として、次々と周りの方々にも志の輔菌は感染を広めている
来春は機会があれば「志の輔らくご in パルコ」2009(あるのかどうかは知らない)に出掛けて
高座でしか味わえない臨場感を体験してみたいものである
9/10のエントリーの終わりに少し書いた「自殺予防週間」
気にかかっていたのには二つ理由がある
ひとつは自殺を減らすための象徴的なイベントとしての週間活動は理解できるのだが
もっと広報活動を拡大もさることながら、日常のケア不足を憂うのである
単純な話ではないことは判っているが、ポスターにもあるように
「話を聴いてあげられる人」にそれぞれがなることを意識することである
「思いを伝えられる」だけでも人は心強く感じるし強くも生きられるものなのだと思う
もうひとつは、私自身も実は結構死にたがる事の多い一人なのである
特別に大きな悩み事やうつ症状があるわけではないのだが
幼い頃から「このまま死んじゃいたいなぁ」と結構頻繁に思うタイプなのである
実際にそれを実行しようとしたことは運が良いのか一度もない
一晩寝ちゃうか、何か他に関心事が出来れば「死んじゃいたい症候群」はどこかへ消えてしまう
逆に大きな悩みが発生しても、それを理由に死にたくはならない
そんな時は「なんとか解決しなきゃ」と逆に気合が入って気力も充実したりするものである
20代の後半ぐらいに「何で生きているんだろう」とプチ哲学的なことを考えていたことがあった
その時に自分の中で出した答えは「明日きっといいことがある(かも知れない)」である
先に何が起こるのかは誰にも予測できないのである
いくら悲観的な考え方しか出来なくたって、幸運が訪れる可能性はゼロではないのである
宝クジがあたるかも知れないし、良きパートナーに出会うかもしれないし、
大きな生きがいを見出せることがあるかも知れない
今のところ、これに勝る答えは自分の中では見つけられていない
「≪」なんていう数記号が本当にあるのかどうかは数Ⅰ教科書の途中までしか勉強しなかった私には分らないが
「<(より小さい)」の強調系で「≪(より非常に小さい)」という数記号らしい
想像とは、目の前に与えられた課題を理解した瞬間に
「なんとなくできそう」、「絶対にこんなこと出来ない」等などと人は感じる
そこには明確な根拠がなくとも、そう思ってしまうものである
意識とは、目の前に与えられた課題を理解した瞬間に
「何としてもやらべばならない」等のように自らに動機づけをまさしき意識的にすることである
この二つはそれぞれ体内で起こっていることだが全く別次元の作用で
想像が否定したものは意識で強制的に肯定したとしても成すことができない
わかりやすく書けば、某テレビ局の夏のイベント番組の100kmマラソン
仮に私に挑戦依頼が来ても私は即座に断る、だって「絶対に10kmすら持たないと思っているから」
それが業務命令だったとしても私は出来ない理由をありったけ並べて挑戦すら辞退するに違いない
私は走ることも歩くこともできるのだから、物理的には100kmを走破する可能性はゼロではないはずなのである
でも私の想像力は100kmを走破して、達成感に満ち溢れた爽やかな笑顔で挨拶している私を思い描くことは例え何があっても、例え天と地がひっくり返ったとしても、例え女房に離婚届を突き付けられたとしても絶対にできない
今回のお題を書き直すと「意識は想像より非常に小さい」ということ
正確には意識の力は想像の力に絶対に勝てないのである
で、どうするかと言うと...
解決策はとても簡単なのである、どんなことがあっても「俺なら絶対に出来る」と思えばいいのである (*^^)v
そうはいっても、思っちゃうことは思っちゃうわけで出来なさそうなことは出来なさそうなのである
だから、まずは出来なさそうと思っちゃった時の自分の想像の過程を冷静に分析する習慣をまずは身につけることである
出来ないと思うことは一瞬である、それは心が恐怖を覚えた瞬間ともいえる
その恐怖の実態を理解することで、出来ないと思っちゃうがは少しづつ変わっていくのだと思う
でもでも、100kmマラソンには私は絶対に挑戦しないのである
当社のホームページのトップは前にも紹介した通り、毎回文字の配列が変る
こんな事を書くとNo.6にフライングだと叱られてしまうが、近々マイナーチェンジを予定している
そこで、現在の当社のトップページで遊んでくれる人募集なのである
マウスを持っていけば反転するブログタイトル群を使って何かの絵にするするコンテストを勝手に開催するのである
No.6は適当にマウスを動かして創った形を「アメリカ大陸(^^)v」とか言って一人でご満悦な時もあった
暇な人は是非チャレンジして欲しい、そしてそのスクリーンシヨットを送って下さいませ
スタッフ一同で公正な審議をして何かの景品を授与するのもいいなぁ(と勝手に思っているのである)
仕事は真面目でなきゃダメである、でもそれだけでも完逐出来ないのが仕事だともいえるのである
今夜はスタッフ3人で就業時間後に久しぶりに熱い議論を交わしていた
お酒も程ほどに入っている時の方がアイデアは出るものなのである
酔っ払った勢いで新しい商品ができちっゃた...かもな夜なのでありました
1カ月に回ぐらいはアイデア会議と証する飲み会は必要だと痛感したのであるが
そんな楽しく愉快な時間が期限限定にならないような踏ん張らなきゃね
9.11と言えば、7年前にアメリカが同時多発テロで攻撃された日である
朝食を取って身支度を整えようと自室に戻ろうとしていて娘とすれ違った
娘 「お父さん、今日は9.11だよ」
私 「おおぅ、そんな話題を口にできるようになったんだ」
娘 「うん、私が2年前に盲腸の手術をした日なんだよ」
私 「............」
まぁ、そんなもんでしょう (-。-)y-゜゜゜
原田宗典著の「私を変えたひと言」を一気に読んだ
著者の人生の中で、転機となったいくつかのひと言について著者の思いを書き綴っている
そこで、私にとっての「私を変えたひと言」を思い浮かべてみた
良い意味で記憶に残っているのは高校二年の時の担任のひと言ぐらいしかない
「村田の(掃除中の)モップの使い方は天才的だな」と褒められたこと
学業の成績で褒められた記憶は残念ながら全くない
特別な技を持ってたわけではないのだが、モップのヘッドの部分を巧みに操っている自信はあった
そんな些細でマスターベーション的なプチ自慢に他の誰かが気付いてくれたことが
未だにとっても貴重な成功体験としてリアルに思い出される
適切な言葉が見つからないのだが、もの凄く嬉しく感じていた記憶が残っている
良くない方面では、二十歳というとても大切な1年間を闘病で棒にふった後の母親のひと言
「入院中には話せなかったけど、あなたは本当は医者から(社会復帰は無理だと)さじを投げられていたんだよ」
あぁ、俺は一度死んでたんだ...と思った
運良く二度目の人生を生きるチャンスをもらったんだ、今までとは違う自分で生きてみようと密かに決意した記憶が残っている
ここまで書いて思い出したことがある
それは他人から言われた言葉ではなくて、自分の心の中でつぶやいていた言葉、時期は高校入試が終わった頃
「過去の自分は捨てよう」、幼少から中学を卒業するまでは無口で大人しい子というのが私に対する評価の大半だった
自分の中ではそんな自分がとても嫌いだったし、本当の自分は違うタイプのはずと思っていた
でも、友人関係や住んでいる環境が私の変化を受け容れてはくれない
一度貼られたレッテルを覆すことは非力な私には無理だった
高校進学は環境が劇的に変る、昔のそんな私を知る人も極端に少なくなる
幼心に自分を変えるのは今しかないと真面目に自分に言い聞かせていた
きっと、まだまだ私を変えたひと言ってのは沢山あるような気がする
思いつくたびにこここにロクとして残しておきたいと思う
その時々の嬉しさや悔しさや悲しさや切なさや怒りは、まさしく私の人生であり
その都度、何かを蓄えたり捨てたりして、今の自分を構成している歴史に他ならないからである
ここのところ、書きたいネタがいくつかあった
ひとつは自民党の総裁選騒ぎの愚かさと国民を今一度愚弄しようとする情けなさであり
国民(というか有権者、というか少なくとも私)はそんなに浅はかではありませんよと書きたかったのと
)たまたま、ネットニュースでたまたま見かけた「自殺予防週間」(9/10~9/16)という企画に疑問を投げかけたかったのだが
何故か、うまくたまとめることができなくて数日空きを作ってしまっていたのです
今夜は無理して書いた感が否めないなぁと思いつつ、眠いのでもう寝る
この絵はご懇意にしていただいている心理学セミナーの講師であり、別名招き猫絵師の谷さんが私のために書いてくれたものであります
知らなかったけどネットを検索していたら作品ブログがあったのでご紹介
探偵さんと招き猫
「溢るるパワーを!」は私の生活信条で、パワーが(自分の中の)器から溢れるほど常に漲らせて生きていたいという気持ちの現れです
自分自身が満たされていなければ、外部へのアプローチは決してプラスには働かない
なぜなら、まずは自分を満たすために他者のパワーを利用しようとするからだ
自分自身で自分を満たせなきゃ、本能がそれをさせるのである
私のことをもっと褒めてよ!もっと認めてよ!もっとかまってよ!もっともっと愛してよ♪と他者を翻弄するのである
だって、自分のことを可愛くない人なんてのは世の中に一人もいないからね
今日はキャロラインリクエストのごくごく身内だけの事務所開き
パワーが溢れるほど漲っているのかどうかは不明だが
私の肝臓は次々とやってくるアルコールの処理に既にオーバフローしていることは間違いない
今夜もウコンの力に頼る夜になりそうである
通勤電車の中での新しいお供を購入
そして、もうひとつは...写真がない
私を変えた一言 (集英社文庫) 原田 宗典著 である
作者には何の関連性もエッセイだということ以外には脈略もない、ただ適当に選んだだけの乱読派である
原田宗則さんは以前に何冊が読ませていただいたことがあるが
石田衣好さんと吉村昭さんはどちらも初体験である
3冊あれば1ヶ月くらいは楽しめそうである
感想は気が向いたらエントリーしてみます
そうそう、「傷つきやすくなった世界で」の帯には「痛みに耐える力があなたに湧いてきますように」って書いてある
痛みに耐える力...ってなんだかとっても日本人的
某企業の社内ブログより...「ミートバイバイが治らない」ってルー大柴でも思いつかないと思う
いよいよ、新生キャロラインリクエストの船出である
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(No.6とsolが同じ画像をIPしたので私は別のページの画像にしてみた)
コーポレートサイトに関しては完成形を知らされていなかったので
出来上がりを見て、「やっぱりこうなるのね...」って感じである
コンテンツの上に縦横無尽に動き回るこの娘が当社のシンボルマークである
全画面ではない小さいWindowsで閲覧するとテキストを邪魔していることもしばしば...
今のところMacでないと意図した表現は難しいようだ(時期は未定で修正予定)
常識的にはWebページは見てもらうためのものなので、隠れて見えなきゃ本来の意味は果たせない気もするのであるが
当社のデザイナー陣はこれが良いらしいので抵抗するのを止めた (-。-)y-゜゜゜
常識的という時の常識はある一定の団体の構成員が共有している価値観や判断基準のことを言い
文化が違う団体だとその常識は非常識となることも少なくない
日本人は恥ずかしいことを最も避けたいという根源的な欲望を文化として育んできているので
常識の範疇でいることがさもまっとうな存在として認識されるのだが
それが正解だとは(私は)思えない
小池真理子さんのとあるエッセイに
「...ありていに言えば、自分は自分、人は人なのだ。世の常識、というものは、たとえあったとしても、それは個々人、自分の人生を歩む上において、何の参考にもならない。
彼らはおしなべて、人と違うことについて悩まないし、不安に思わないのだ、目を向けるのは常に自分自身であり、自己との真摯な対話をおろそかにしない。自分で決めたことは、揺るぎなく押し通す。」という一節があり
まさしくその通りだよなぁと思うのである
まずは自分の意思が何よりも大切なのである
それを常識という物差しで見たときに必ずしも一致しないこともあるだろう
だからと言って、常識に従い意思を曲げたとしたら、その瞬間に自分ではなくなってしまうのだ
常識は知恵とは違う、知恵とは太古の昔からの脈々と続いてきた人類の生き残るための財産であり
常識は自己の自由を妨げるしがらみでしかないような気がしてならないのである
上に書いたWebページに関する社内の攻防も常識を捨て切れない私とデザイナー陣とのギッャプでしかないのである
だからと言って常識をぶっ壊せ!!とも思っていない
自己の対話で得られた答えが結果的に常識の範疇であったって別にかまわないわけで
知恵を絞りつつ、スタッフそれぞれの自分らしさやキャロラインリクエストらしさを鮮明に打ち出すことが
当社の課せられた最大の使命だと会社設立にあたり再認識した
ちなみに、今夜の我が家はONE PIECE第51巻を親子で争奪戦なのである
福田康夫首相が辞任会見を開いてからほぼ一日経とうとしている
政治に関しては興味がない ...というか興味が無くなってしまったので
自民党がどうのこうのとか、無責任だとか、等などの感想がないというのが実感
辞任会見はテレビを通じて最初から最後まで見ていた
内容的には何も語ろうとすらしなかったなぁというのが私の感想である
つたえたくても伝えられない何かがあるような奥歯にモノが挟まったままで終わってしまった
「新たな体制の方がいい」という理由を何度も口にしていたが
どうして私じゃない別の人がいいのかという理由は一度も語らなかった
政治空白は国民に迷惑を掛けると話していたが、それも説明不足のまま終わった
完全に説明責任を果たしていない会見だった
真実や真相を全く語ることのできない会見なら、すべてにおいて全く意味がないことを再確認した程度しか(私の中では)成果はなかった
まさしくと゜うでもいい会見でしかなかった
「どうでもいいじゃん...」というのは私の口癖のひとつらしい
それはもっとも近しい知人K氏から最近になって指摘されたことで
会話の端々にそのワードが出てくるらしい
K氏というのは私の部下でもあり、仕事も含めて共通の話題は事欠かないのであるが
思考パターンが違うのか、K氏が悩みとして抱えるようなことでも、私にとっては拘りたいことの範疇から外れている事が多い
拠って「そんなことはどうでもいいじゃん...」的な発言を連発してしまうらしい
自らを省みてみて、拘りが多いかというと決してそうじゃないと思っている
むしろ拘りたいことはピンポイントでそれ以外はピンポイントがぶれなければ大概のことは受け容れられたりする人だと(私自身は)思っている
ただ、ピンポイントの拘りが実現できなければ、ほかの全ても台無しにしてしまってても仕方ないという癖は持ち合わせているようだ
この辺りに私のまだ自覚できてないトラウマが何か潜んでいそうである
まぁ、それも今は「どうでもいいこと」のひとつでしかないんだけどね
いよいよ明後日が株式会社キャロラインリクエストの設立日である
まだ設立前ではあるが、お陰さまで様々な方からのお声掛けを頂戴している
相当に無責任な書き方だが、「なんとなく安心」している自分がいる
根拠があるわけではないので、その安心は一瞬にして崩壊する可能性も秘めているのだが
単なる気分的なものだけではないのも事実である
当社の最大の売り物になるであろうGlue CMSとそのベースとなるGlueというフレームワークの開発を急いでいて
それが完成を前にして既に一人歩きしているらしいこともあったりするのだが
何よりも心強く感じているのは当社のスタッフ全員が自らの意思を持っているという自負だ
意思があるというのは自分がやりたいことが明確になっているということで
ビジネス的には、それは過去の経験の中で得られた自分の得意分野でもあり
個という単位であれば、きっとそれは自分が好きなこと(やりたいこと)なのだろうと感じている
ビジネスとして成功する最大の要因は仕事が好きなことのような気がする
(嫌々やってる仕事で質の高いサービスが提供出来る訳がないからね)
それは単なる生活の為の糧ではなくて、自己実現的要素がそこに内包されているからこそ実現できることなのだろうと思う
そんな雰囲気をヒシヒシと感じられることが「なんとなく安心」出来る最大の要因である
昨日も少し書きましたが、我が社のコーポレートサイトが少し変りました
(*今は設立前なので暫定版です)
画面一杯にランダムに出てくる文字は、当社のスタッフ3名のブログの表題です
それぞれにカラーが決まっていてマウスを文字の上に持っていくと
私はイエロー、no.6は濃いパープル、solはブルーっぽいグリーンに変ります
カラーが変った文字自体がリンクボタンになっています
ここで暴露するような話ではないと思うが、完成形のイメージすらどうなるのかすら私は聞いていない
どこまでが遊びでどこまでが本気なのかは知らないけれど
コーポレートサイトとしてはひとつの形なのかもしれないと思っている
会社といっても人の集合体でしかないわけで
だから、何を売っている作っているだけのサイトじゃなくて
こんな奴がいる、あんな奴がいるということも本来は必要なはず
しかも、いかにもそのためだけの笑顔の写真のオンパレードは逆に気持ちが悪いし
文字だった写真だったり、その人の本来の顔が見える媒体でなきゃ伝わらないことも多い
キャロラインリクエストを設立にあたり
スタッフとなる全員にそれぞれのオリジナルブログを持つことを職務の一部とすることを理解してもらった
せめて、何をやっている会社ぐらいは掲載しないといけないだろうが
キャロラインリクエストのWEBサイトはスタッフブログがメインですと
胸を張って言い続けられるようしたい
新生キャロラインリクエストのスタートまであと1週間と迫ってきた
現在は法人の登記手続きをしつつ、売り物の準備中なのであるが
よく考えたらこのブログでも「両目にバンソーコー」でも「sol.blog」でも
何をやりたい会社なのか一切語られていないことに今頃気づく(・。・;
というわけで、株式会社キャロラインリクエストの会社の目的(登記上)を発表
※コーポレートサイトはNo.6が1人で遊んでるみたい
1. インターネットを使用したシステムに関するソフトウェアの設計、取得、貸与、販売、導入、運用及びこれら関するコンサルティング業務
2. インターネットを使用したシステムの調査、分析、計画、設計、開発及びこれらに関するコンサルティング業務
3.. グラフィックデザインの制作
4. コンピュータのソフトウェア設計、プログラム開発及び技術提供並び保守に関する業務
5. ソフトウェア及びハードウェアの販売代理店業務
6. コンピュータシステムを利用した情報処理及び情報提供
7. コンピュータ・ソフトウェアの開発及び使用権許諾
8. コンピュータ・ハードウェアの販売
9. コンピュータシステムに関する教育業務
10. コンピータシステムに付随するコンサルタント業務
11. ファッション衣料及びファッション雑貨の企画及び販売
12. プロモーションビデオ映像の企画、制作
13. ビデオ映像及びコンピュータ映像の企画制作並びに販売
14. 店舗及び家具インテリアデザイン業
15. 前号に付帯関連する一切の事業
と、まぁ出来そうなことを並べられるだけ並べてみました...ってのが当人達の感想である
我が社のCorporate Identityは詳しい理由は秘密だけれど、まさしく社名がそれそのものである
1年後にどんな会社になっているのかは誰にも判らないことではあるが
まずは1年間、われわれスタッフ全員の可能性をより広げる作業を続けたいと思う
それはそうと名古屋の市営地下鉄「丸の内駅」は乗り換えのための移動があまりにも長すぎる
同一性(identity)とは、あるものが他のものと等しくある性質をいい
自我同一性(self identity)とは、自分は何者であり、何をなすべきかという個人の心の中に保持される概念だ
だから、「私は私」という表現は本当は適切ではない、というか単に自我を見つけられていないという(若しくは何かも考えてない)ことを表明しているだけなのである
私という存在が何かとの同一性を見出すことではじめてidentityという表現が用いることが出来るようになるはずなのである
キャロラインリクエストの発足のキッカケはある企業のCI構築から始まった
景気後退が懸念される中でコストのかかるCI開発は社内でも批判は少なくなかった
でも、キャロラインリクエストの実質的な前身にあたる固有の集団は、そんな時期だからこそCorporate Identityが必要なのだと確信していた
SelfでもCorporateでも、「私は私」「我が社は我が社」と考えているうちは進歩も進化も絶対に成す事は出来ない
理由は明らかである、自分(自社)の強みや弱みを解析して理解していなければ
意識を変えることも戦略を練ることも出来ないからである
漠然と「私(我が社)は私(我が社)で何が悪い」と開き直っているだけである
多くの企業が業績が鈍化したり先行きが不透明になってくると、改革だとか挑戦だとかいってアクションを起こす
そして、その多くはたいした成果を得られないまま頓挫していく(らしい)
それは理由は確固たるidentityを見出せていないからなのたろう(と私は思う)
私自身も数年前までは改革というキーワードを特に好んで使っていた
それは停滞している現状を打破したいという単純な思いからだけであったのだが
その間違いにある時に気付かせてもらった
それは自らの自我同一性に(この歳になって)気付いた瞬間であった
私のself identityは「支える」である
もう少し噛み砕いて書けば、何かを支えることで自らの存在価値を見出している生き物だということだ
支えることは苦しいことだと感じる方も少なからずいるだろうが
私にとっては支えることが全てだと断言しても過言ではない
私を知る人たちは、日々の私の言動をそう捉えられない場面もあるかも知れないが
私は全ての場面で「支える」を純粋に実行している
どんな場面でも「支えている私」をまさしく左脳的に説明する自信がある
キャロラインリクエストを始めるにあたり、この私のidentityは今までとは違う対象に向かうことになる
それは組織の内部からのアプローチが組織の外部からのアプローチに変るということ
でも、私のidentityが一切ブレることはない、環境の変化でブレるものは本当のidentityとは違うのだ
No.6のブログ「真」を読んで思ったままを書いてみた
しかし、そろそろボロボロになった財布を買い換えなきゃ
夏休みももうのこり僅かとなってきた
我が家には中学3年の息子と中学1年の娘がいる
息子はほぼ毎日10時くらいには家を出て塾の自習室とやらで勉強をしているようだ
本人曰く、冷房も効いているし私語厳禁なので勉強に集中できるからということらしい
娘は同じ塾に通っているのだが、あまり自習室には行ってないらしい
女房はというとこの春から給食のオバさんをパートで始めたので
夏休み中は必然的に仕事がなくて四六時中家にいる
息子と娘の行動の違いを見ると、その理由は母親の存在にあるような気がしてならない
ご多分に漏れず我が細君も勉強には口やかましい
朝から晩まで子供たちに「宿題は出来たか!?」「遊んでばかりいないで勉強しない!」と
定期的に口にしないと死んでしまうかのように繰り返している
息子の行動はあきらかにそんな口喧しい母親からの避難行為である
もう、グタグタと繰り返される小言を音としてすら聞きたくないようだ
一方、娘はその小言を疎ましくも感じならがら、小言を言われることで自分の存在を確認しているようで
わざと手の掛かる子供を演じていて、叱られる場面を率先して作っているような気がしてならないのだ
対する母親も娘には殊更に口喧しい、それは躾であったり娘のために...という部分が大半を占めているのだろうが
第三者的に見ているとその域を完全に超えている場合も少なくない
娘の幼少期からそんな二人の関係を見ていると
お互いに分かってやっているんだなとも思えて、最近ではその二人の丁々発止を楽しんでいる
傍らにいると単なる騒音以外の何物でもないが、二人には大切なコミュニケーションなのである
支配しているつもりの母親が実は娘の言動にコントロールされて、娘の思うがままに小言を言わされているのである
女房にそう何度もアドバイスをしているのだが、毎日のように娘の術中にハマって楽しんでいる
私と息子は、そんな二人を眺めながら時々顔を見合わせては、それぞれの自室に消えていく毎日なのである
そうしつつも、スチールドラゴンのハシゴを心いくまでしてみたいのである
ここのところハマっている海外ドラマ
ひとつはDr.HOUSE、さらにリ・ジェネシスバイオ犯罪捜査班、そしてクリミナル・マイントFBI行動分析課の3つである
知人からの影響で禁断の「24」を見始めて以来、次々と海外ドラマを漁るように観ているのだが
派手なアンションやストーリー性や勧善懲悪が楽しかった初めの頃とは楽しみ方が変ってきている
上に上げた三つのドラマはひとつは医者の話、もうひとつは科学者の話、最後はプロファイラーの話である
共通しているのは起こった事実を冷静に検証して、そこから仮説を立て、解決に導くという流れである
それぞれの登場人物はその筋の天才として描かれているのだが
実は失敗の連続の果てにやっと解決へと辿り着くのである
問題解決への柔軟な思考は見ていてとても参考になる
言い方を変えると仮説力とも言えるのかもしれない
難題にぶち当たった時にどれだけ柔軟な発想で多様な仮説を立てていけるのか
実社会ではドラマのように常に正解が見つかるわけではないのだが
起こった事実だけを正確に検証する目と多様な仮説力の必要性を痛感する
仮説を立てるという行動はよくよく考えてみると
実は我々も四六時中やっているのである
「こんなことをしたら金儲けができるかも」
「ああしたら上司に褒められるかも」
「こうしたらあの女性(男性)に気に入ってもらえるかも」等などである
ただ、仮説力を鍛えていないと選択肢は限りなく限定的になり
自らの望んだ結末に至る可能性は極端に少なくなる
その結果だけを捉えて、自分には運がないとか環境が悪いからと他者に責任転化を決め込まないように心掛けたいものである
仮説力を鍛える絶好のチャンスを自らが逃してしまうことになるのだから
それはそうと、リ・ジェネシスのメイコとCSI:マイアミのナタリアは僕の好みだなぁ
北京オリンピックの柔道競技を観ていて感じていたこと
それは「らしさ」の欠落である
テレビで放映される多くのシーンは準決勝以上の試合だったり
若しくは日本人選手の試合が殆どなのであるが
試合の優劣が決まった瞬間にガッツポーズをしたり、喜びのあまり周りを飛び跳ねたり
はたまた、期待に応えられずに泣き崩れたり蹲ったり
重圧からの開放感でその場に大の字に寝てなかなか起き上がってこなかったり
その光景にもの凄い苛立ちを覚えていた
私は柔道を習ったのはせいぜい体育の授業程度しかないが
同じく武道の剣道を中学生までかじっていた
それは「礼に始まって礼に終わる世界」だったはずである
自らの精神力の鍛錬が第一義で、技術の向上や試合の勝ち負けはその次だった(はず)
試合に勝とうが負けようが、相手選手を敬う気持ちもそこには含まれていたはずなのである
試合の終わりは優劣がついた時ではなくて、相手選手を敬う一礼が終わり
闘技エリアから離れた瞬間でなければならない(と私は思っている)
そこまでは極端なリアクションはとるべぎはないはずなのである
それなのに...
日本人選手ですらそれを忘れちまってるようで何か悲しさを感じるのである
人だから感情を抑えきれない瞬間があるのも当然だろうけど
柔道は武道なのは間違いことで、そこに脈々と流れている精神世界を忘れて欲しくないと思う
レスリングや陸上競技とは違うのである
勿論、オリンピックに出場するような方々なので、
私が想像できないような厳しい鍛錬をなさっていることは間違いのないことではあるが
残念ながら、武道家らしさはそこにはないように思えて仕方がない
もうひとつ、受身という概念はどこへ行ってしまったのだろうと思う
技を掛けられて決定的な場面でも、無理な体勢で一本から逃れようとする
日本柔道は一本勝ちに拘りすぎている...という解説も少なくはないのだが
受身は本来、投げ技による怪我から我が身を守るためのもので
負けを避けるためのものではないはずなのだ
パワー柔道が主流になって(いるらしい)、競技そのものの根幹が揺らいでいて
武道ではなくて別のものに進化(若しくは退化)しているようだ
ここでも柔道らしさが欠落しているような気がしてならない
三五十五のような見事な背負い投げが観てみたい(判る人だけ判ってくれれば良いです(^。^))
前のエントリーの「Beijing 2008」の続き
北京オリンピックの会場もそうだけれど、空港やいたる所でセキュリティチッェクという関門が我々を待っていた
安全を期すのはとても大切なことなのではあるが
当然のことながら、私はテロ行為等するつもりもないし
それを実行するだけの技量も資金もない
でも、それは私個人だけが知っていることであり
他者(特に外国に行った場合)には口頭でのそんな説明は何の意味も持たない
いわゆる悪意を持っている人(が、いたとしたら)は確率的には0.000...%のレベルだろうし
そのために、残りの99.999...%の参加者は時間の浪費というコストを払い
主催者(保安)側は膨大な人件費と施設のコストを払う
安全をお金で買うという意識は日本人には馴染みの薄いもので
日本国内にいる限りこれらのコストと、それから得られるであろう安全という対価は既に手中にしてしまっているからなのだと思う
日本は島国で且つ単一民族で構成されているからという解説は嫌というほど聞かされている
他国の人たちから見れば侵略されたり(した)過去がないから平和ボケしてるのだと批判されるのかも知れないが
平和ボケで何が悪いと思うのである
身の回り品も含めて、一度どこかでチェックをすればこと足ることじゃないのかと私は思う
空港で「この人は安全です」というお墨付きをもらえば、その国内の何処でも通用するような仕組みは作れないのかと思う
武器や火器等を現地調達する可能性だって否定は出来ないが
それはその国の国内の問題であって他国からの入国者には無関係な話のはずなのである
言葉も違えば宗教も文化も違う、そんな人々が同一の思想を持つことは容易なことではないが
暴挙に出るのは本来は我が身を守るための最後の手段であり
先制攻撃をするためのものではないはずなのである
人は必ず他者との共存を本能的に望む生き物のなのである
でも、人は攻撃・侵略・略奪の歴史を止めることは出来ない
平和の祭典の影で紛争はいたるところで勃発している
オリンピックの起源は当時のアテネ周辺の小国同士の侵略合戦を
統一の競技会を開催することで一次休戦するためのものだったらしい
もうその当時から人の愚行は始まっていたのである
日本はアメリカという軍事大国の庇護の下に安全を享受していると言われるが
そのアメリカの地上生活は(多分)日本よりも危険度が高いのである
単なるアメリカの傘下いることだけが日本の安全文化の全てではないのである
日本人の本当の心は殆どの外人が理解することは出来ないだろうか
安全が当たり前の社会があることを今だからこそ胸を張って誇るべきで
セキュリティの強化という対処療法にコストを掛ける愚かさに辟易した北京滞在であった
8/13~16の4日間、北京オリンピック観戦ツアーに参加してきた
もの凄く暑いと聞かされていたが、日本で今一番暑い東海途方に住む私にとっては
過ごし易さという点では北京の方が数段楽だったよう感じがした
最初に観戦したのは日本のお家芸(だったはずの)柔道である
観戦日は8/14、男子は鈴木選手、女子は中澤選手が出場する夜の部のチケットでした
夜の部ということで、両選手がせめて準決勝まで勝ち進んでくれないと日本人選手を応援する機会を逸してしまう
その不安は昼食時に的中した、鈴木選手が一回戦負けを喫したとの第一報...
まだまだ女子もあるさと言っていたのも束の間、続けて寂しい知らせが入る
かくして、準備していた応援グッズは一度も日の目をみることもなく
オリンピックの雰囲気だけを味わう寂しいスタートとなってしまったのである
![]()
翌日は、通称「鳥の巣」と呼ばれているメイン会場で陸上競技を観戦する
![]()
(←誰しもそうだろうけど行列に並ぶのは大嫌いなのだ)
ガイドが強烈に混雑してますから予告通りに
会場に到着してからセキュリティチェックを通過するだけで一時間半も時間が必要だったのである
長い長~い行列をやっと抜けると今世界で一番有名な網々のメインスタジアムが目の前に
(私も含めて、一斉に写真を撮っちゃうあたりが日本人らしくていいですねぇ(自嘲))
その隣には北島選手が連続二冠を達成した水泳会場
競技場の中に入るとこんな感じ...
グランドでは室伏選手の砲丸投げの予選を戦っていた
(と言っても一投目で高記録が出たのでその後は投げなかったらしいけど...)
100m一次予選の塚原選手の力走も見れました
スタンドで座っていられたのは一時間とちょっとだけ、セキュリティ通過するための時間の方が長かったのがなんともイベントこどらしくていいのだ
とまぁ、実際の観戦時間は柔道と陸上を合わせて3時間あまり
メダルを賭けた大一番とは遭遇することが出来なかったのが残念ではあったが
「その時にそこにいた」という自己満足だけでも体験させてもらったことに感謝しよう
脳には右脳と左脳があって、右脳は主にイメージや感性や想像力を司っていて、左脳は主に言語ゆ論理や分析を司っています
人にはタイプがあって感性が豊かだったり(乏しかったり)分析能力に長けていたり(欠落していたり)等々、右脳と左脳の使い方のバランスによってさまざまな個性が創り出され、それを使って日々暮らしています
それは仕事とかプライベートとかという区別はなく、どんな場面や環境でも変わることはありません
私の場合は圧倒的に左脳に頼って暮らすことを幼い頃のある日に決断したようで、長年染みついた物事の捉え方や考え方はなかなかかえられるものではないようです
両親から引き継いだDNAも少なからず影響しているのだろうとは思いますが、脳の使い方のを決めたのは生まれて以後に学習して身につけたものです
この2年あまり心理学の勉強をしてきました
その中で本当の自らを見詰め直す作業の中で、おぼろげに意識していた私の生き方はより明確になっていきました
感情を押し殺して冷静沈着な立ち居振る舞いを自らに強制し、俗にいう手の掛からない良い人(子)でいることで他者との共存を図って生きてきました
共存し続けめに様々な武器を身につけました、それはそのグループの中での自らの存在意義を確実にするためのもの、悪い言い方をすれば自己保身のためのものです
でも、時にはそれでも拒絶されてしまうことがある
「仲間外れにされないために、ひたすらアナタ(方)に尽くしているのに...」という甘えを否定された時に
それまでひた隠しにしていた感情がむき出しになる、過去を振り返るとそんなことも何度かありました
右脳を中心に生きている人達がどんな感じ方や考え方をしているのかは左脳人間の私には想像もできませんが、やはり何事もバランスが大切なのだと痛感している今日のこの頃なのです
幸いにして、私の身につけた武器はビジネスという場面では有効に働いたことが多かった
キャロラインリクエストという新しい仕事の中で、私自身のは脳をより強化しつつ、右脳の開発を忘れないで取り組んでいきたいと思っている
記念すべきブログ第1号なのです
この度、no.6こと定岡氏とSOLこと宮崎氏の3人で一緒に仕事をすることになりました村田と申します
ブログ歴はあちこち引越ししながらも足掛け6年ってところ
今回は「selfish.few」というハンドルネームで戻ってきました
このハンドルネームの命名者はno.6さんで、日本語的には「少数派な利己主義者」とでもいったところ
最近になって、それに「左脳的」ってのをつけたいのだが
「左脳的で少数派な利己主義者」じゃ長すぎるわけで、何か良いアイデアがないものかと思案しているところ
ところで利己主義と聞くと我侭放題な奴とか身勝手な奴というイメージが強いのだが、本当の利己主義というのは実はそれとは違う
利己主義とは、まさしく己の利益を最重要視する考え方であり、前述のような単なる我侭放題とか身勝手というのは、その言動に対する善意のないリアクションを代償として受け入れざる得ない状態に陥らせてしまうからである
例えば、悪口を言われるとか、相手にされないとか、煙たがられるとか、信用されない等、それらの他者からの悪い評判や反応は決して自らに利を生ますことは出来ない、トータルで見ると決して利己的ではないのである
では、何が本当の利己主義がどうなのかというと、それは私には判らない
ただ、私自身の生き方が他者からそう見えるのであれば、それはそれで受け入れられるというだけの話でなのである
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